2022.04.01 メルコバリュー 創業者の遺志と経営理念を継ぐ メルコ「ものづくり」の軌跡〈PR〉
創業者の牧誠氏
Wi-Fiルーターや、ハードディスクでおなじみの㈱バッファローを中核会社として持つ、㈱メルコホールディングスの創業者、牧誠が他界してから、この4月3日で丸4年となる。追悼と、音響・情報技術融合における貢献への感謝の意を込めて、今回の記念記事掲載に向け、当時牧誠メルコを支えた方々に2022年2月11日に創業の地に集まっていただき、創業からパソコン事業に取り組むまでを伺いまとめた。
音響機器メーカーとして75年創業
糸ドライブプレーヤー大ヒット
同社は、1975年5月、名古屋市天白区にある牧の自宅で、音響機器メーカーとして誕生した。
社名のメルコ(MELCO)は、自分の技術が世の中でどれほど通用するのか確かめたいという思いから「牧技術研究所」の英文名称「Maki Engineering Laboratory Company」の頭文字を取った。
現在メルコは、持ち株会社メルコホールディングスとして、IT機器とデジタル家電から関連するサービスまで幅広い事業を担う。社名および製品の商標である「BUFFALO」は、音響機器からパソコン周辺機器への事業転換後に生まれ、事業成長の柱となったヒット商品、〝プリンタバッファ〟に由来している。
牧が音響機器専業で創業してから、パソコン周辺機器事業へ転換し、事業として成功するまでの約6年間に自らの体験を通じて得た多くのフィロソフィーが、その後のメルコの急成長と成功をもたらした。後にこのフィロソフィーは、メルコの四つの理念「千年企業」「顧客志向」「変化即動」「一致団結」に整理され、経営理念「メルコバリュー」として継承されている。
■創業とものづくり
牧は71年に早稲田大学理工学部物理学科を卒業し同大学院理工学研究科応用物理学生時代には、オーディオ専門誌に定期的に製作記事を書いていた。アルバイト先だった東京・秋葉原の音響メーカーに入社したが、自身で納得する製品を開発したいと75年4月に実家に戻り、5月に個人事業としてメルコを創業した。
初の製品であるイコライザーアンプ〝EP-10〟の発売は自身で記事も寄稿する専門誌「無線と実験」76年1月号で、自信を持って発表した。製品のキャッチコピーは「贅肉を取り去りました」。大きな期待を持って受注を待つも電話は鳴らず在庫の山となった。牧は頭を抱え、自ら「営業部長」の名刺を作って全国のお客さまを回りその理由を聞いて回ったところ、目の前で商品をボロクソに言われ自信を持った商品は単なる「独り善がり」であったことを痛感する。そこで、顧客の声に応えて改良した商品を出すと「そうそうこれが欲しかった」と逆に大好評を得た。「お客さんを喜ばせて自分もうれしい」―顧客志向の原点である。
■夫妻とアルバイト学生で事業を拡大した実家敷地のプレハブ工場
メルコの社屋兼工場は牧の実家敷地に建てたプレハブ。廣美と77年に結婚し、当初は一人で設計、製造、販売を行っていたが、同年6月に名古屋市中区大須の第一アメ横ビルにアンテナショップとして〝メルショップ〟を出店することになり、アルバイト学生を募集した。第1号の稲垣は「メルショップ開店時からアンプの組み立てをしながら店頭にも立つ仕事をしていました」という。
アルバイトは、はんだ付けに親しんでいる学生同士の口コミで広がった。廣美実弟の鏡味を通じて戸田が加わり、後輩の鳥山も参加した。当時のメルコの印象を鳥山は「大学3年になった79年春、自動車部先輩の戸田さんが卒研前の忙しさからアルバイトを回してきて関わりを持ちました。常勤は牧さん一人で、廣美さんが事務と製品発送を担当、バイトが2、3人という会社で、社長も半分趣味のようなところもあり気楽な雰囲気。昼は母屋にお邪魔して皆で昼食。3時には取締役の廣美さんが紅茶を出してくれ、下宿より居心地が良い場所でした」と回顧する。
浪人中の76年末にメルコの試聴室でHi-Fi音響に接して影響を受けた鏡味は、大学入学後の79年からアルバイトに加わった。当初はこの牧誠がオーディオ雑誌の製作記事を書いていた〝牧まこと〟と気付いていなかったという。
■社長自ら納品
牧が全国の店回りをしたと前述したが、アンプの組み立ての傍ら顧客巡りに同行したのが稲垣の後輩の相羽。「4年間ほどメルコブランドのアンプを組み立てました。数十台は作ったはずです。ほかに、糸ドライブプレーヤーを社長と車で納品していました。私が運転手で長野や大阪方面まで行きました。アルバイトを卒業する78年ごろには社長はパソコンに熱を上げていました」と振り返る。
■部品や製品へのこだわり
鏡味の紹介でアルバイトに加わった戸田も牧誠がオーディオ雑誌に記載した記事を基にアンプを作成した経験があったが、〝牧まこと〟本人だと気づいたのはかなり後のことだった。仕事の内容を「主としてMPA-10とEP-10の組み立てで、最初に配線用のハーネス作りをして、予定台数分作ってからはんだ付けをします。特注アンプは社長設計の回路図からまず実体配線図を書き、GOサインが出たらシャシー加工をする、良い音追求の思いが込められた工程だった」という。
鳥山は「真空管はテレフンケン、コンデンサーはスプラグ、配線は銀めっき線、はんだも銀入り」。戸田は「からげ配線を徹底していて社長から伺ったのは『加熱してからはんだを供給』『アンプ作りは簡単。いい音にするのが難しい』『配線の仕方で音が変わる。配線者の癖が音に出る』で、さらに糸ドライブプレーヤーのヒットを分析した『いいもの=顧客ニーズに合ったものが売れる』という説も聞きました」と話し、「はんだ付けはうまくなりました」という。
■創業者と長い付き合いだったユーザーの思い出
牧と同い年だった村瀬も参加している。牧廣美は「村瀬さんはプレハブ社屋で一人黙々と組み立てに没頭している牧を訪ね激励し、顧客も紹介していただき、オーディオや音楽にも造詣が深い。メルコのオーディオ製品のユーザーで、息の長いお付き合いをさせていただいている」と紹介。
村瀬は「牧さんとは同い年。オーディオは高校生の頃から好きでした。家を建て替える時にオーディオルームを作りたいと話をしたところ、素晴らしい助言をしてくれました。提案通りにスピーカーはJBL〝4343〟にして、メルコのアンプも改造して使わせてもらいました。当時、時間があると、皆さんが仕事をしている工場に伺い、コーヒーをいただき、たばこをふかして、オーディオやレコード談義をするのが楽しみでした」と振り返り、「一番印象に残っているのは糸ドライブプレーヤーが完成したときで私は立ち会っていました。すごく喜んでいました。私も欲しかったのですが高くて買えませんでした。初めて牧さんに会ったころのこと、オーディオからコンピューター分野に参入したころのこと、病気にかかられて最後にお会いしたころのことは走馬灯のようによみがえります。本当にオーディオが好きな方でした」という。
牧廣美は「病気を克服したら、もう一度オーディオに戻りたいと言っていました。それが、牧の没後に、創業期から伝わる、音へのこだわりや技術への取り組みを形に残そうと、1周忌までに〝WesternElectric〟製の映画館用スピーカーシステムや、創業期の真空管式オーディオ製品を実働状況する案が立ち上がり、18年末に牧寛之現社長の承諾も得て名古屋本社9階への設置することになった」という。
■メルコの大ヒット製品〝糸ドライブプレーヤー〟発売
78年8月に株式会社メルコを設立し、同月に糸ドライブプレーヤー〝3533〟が発売された。
ターンテーブルの総重量が20キログラム、慣性質量3.5トン平方センチメートルの砲金製で、〝大久保式軸と軸受け〟を使い24極ヒステリシス・シンクロナス・モーターで木綿糸を使ってドライブする斬新なレコードプレーヤーは、48万円と高額だったが、これまでにない性能を実現したハイクオリティープレーヤーとして、多くのオーディオファンに絶賛され大ヒットした。
アルバイト各位は「バイト代をメルコ製品につぎ込んでいて、稲垣はさらに重量級の当時60万円もする〝3560〟を買いました」。「ターンテーブルは大久保さんが設計、製造。アンプの組み立てをしていた私たちにしてみると突然降って湧いた大久保さん。持って来られると重たいプレーヤーを試聴室に設置。レコードを再生してチェックしました。夏の暑い時は苦労しました」。
「結構売れましたね。〝3533〟と〝3560〟のほかにケース付きもあって」。「それでも大メーカーの参入で、結果、オーディオから撤退しパソコン周辺機器にシフトすることになりました。社長はなぜか晴れやかな表情で『もういいんだよ』と語っていたのが印象的でした」と口をそろえる。
■パソコンへの傾倒
メルコ創業期はオーディオやアマチュア無線が主流だった電子ホビーの世界に、マイクロコンピューターが登場した時期と重なる。78年にBASIC言語搭載の日立〝ベーシックマスター〟、78年にシャープ〝MZ-80K〟、79年にNEC〝PC-8001〟が発売され、パソコンブームが起きた。第一アメ横ビル内のパソコン扱い店は門前市を成す状況になった。牧は時代の変化を見いだし〝変化即動〟を起こした。まずは人気沸騰のパソコンの入手から。
相談を受けたのは鳥山だった。「社長から機種を選んでほしいと言われPC-8001を推薦しました」。
廣美は、「当時は経理も私が引き受けていましたので負担軽減のために、牧は経理プログラムにも挑戦していたようです」と話す。
商品開発にも役立てる計画もあった。鳥山は、プログラミングしていると社長が質問してくる。お茶の時間に糸ドライブターンテーブルのモーター制御にサイン値を書き込んだROM出力をD/A変換する方法を提案したら採用され、デジタル部を私が、モーターを回すアナログ部分を社長が担当して試作することになったという。
パソコン周辺機器開発へのシフトのきっかけを鳥山は「2人は趣味的な楽しい時間を過ごしていましたが、ある日、廣美さんから主人はマイコンばかりいじって、床に就いてもマイコンの本を読んでいるけど、商売になるのかと聞かれました。社長は何か考えていますよと言ってはみたものの自信はなく、思いついたのはバラックで作った〝P-ROMライター〟の製品化でした」と話す。
80年の春にパソコン関連製品発売
プリンタバッファ開発から〝バッファロー〟誕生
■P-ROMライター大ヒットでパソコン事業始動
鳥山が80年春にパソコン関係の製品を出したいと牧に提案したところ、二つ返事で「最低100台は売ってあげる」と言われ、回路図はすぐにでき、基板を発注。「マニュアルは廣美さんが和文タイプで清書。社長が見つけてきた、ちょっと見栄えのする表紙で製本するとメーカー品の雰囲気が出てきました」と準備完了。「基板実装はご両親まで加わり家族総出。社長は営業担当で製品を携え、秋葉原を回りサンプル品として置いてきました。しばらくすると続々注文が入り、在庫はゼロで納品催促がやまない。当時、秋葉原では〝AppleⅡ〟もどきのボードが売られ、ROMコピーという特殊需要があったそうです。設計段階の部品代は定価の3分の1だったのが半導体の値下がりと大量購入で安くなり、収益も上がりました」と、P-ROMライターは大ヒットした。
■〝バッファロー〟の誕生
鳥山は、P-ROMライターのソフト開発で、プリンターの遅さに腹立たしい思いを経験した。長いプログラムリストを打つと30分ほどかかり、その間パソコンは使えない。そこで〝プリンタバッファ〟の開発を始めた。
「ソフト開発は社長宅で、ハードの試作はプレハブで行いました。このころ、プレハブ内の庭側の一等地にはベビーベッドが置かれ、長男の牧寛之君と加湿器がやってきていました。このときから製造は全て外部委託。ファブレス企業の原点になりました。〝プリンタバッファ〟は82年11月に発売されました。当時からこの製品は「バッファ郎」と呼ばれていた記憶があります。
■牧誠創業者の人柄
牧廣美「オーディオでもパソコンとの取り組みでも、とことん探求する人でした」。
村瀬「オーディオと音楽に関して優れた感性と知識を持ち、いつもニコニコしながら楽しそうに語ってくれました」。
尾関「入社当時、毎週金曜日は企画会議があり、夜の11時過ぎまでやっていました。開発の責任者は毎週緊張した様子で参加していました。私にとっては怖い存在で、仕事には厳しかったですが、優しい人柄でした」。
集まっていただいた方々と創業当時のプロフィル(敬称略)。
相羽善次、稲垣順一、尾関強(現:本社9階音響設備担当者)、鏡味功(廣美夫人実弟)、田中善道(現:メルコ記念館館長)、戸田政治、鳥山裕史(PC周辺機器参入の道を開く。文書参加)、牧廣美(牧誠メルコ創業者夫人)、村瀬修一(牧創業時からのユーザー)