2020.09.30 【電波新聞70周年特集】作家・歌手小説家 真山仁コロナ禍を生き抜くために

 今年に入り、新型コロナ一色だが、戦後75年かけてつくり上げてきた日本の地金というか、良さも弱さも見えてきたのではないか。

見えない恐怖に踊らされる

 日本人に限らず、見えない恐怖には踊らされやすい。3.11(東日本大震災)での放射能の問題とよく似ている。

 ウイルスも放射能も見えないから「安全だ」と言われれば言われるほど、十分な対策ができていないのではと不安になり、「官邸は何をしているのか」と不満が募る。

 3.11当時の民主党政権を批判した急先鋒は自民党だったが、10年たって逆の立場となった。しかし、ほとんど同じような無策の状況が続き、揚げ句に総理は表に出てこなくなり、辞めてしまった。

 危機になってやっぱり駄目なのかと感じるのは、政治だけの話ではない。国民の側も見えない恐怖を前にどう行動すべきか戸惑っていて、こんなときに求められるのは、お上のお達しだ。

 これは日本の文化だろう。官邸だったり霞が関だったり、発する者やその内容がころころと変わることに最初は右往左往して、やがて怒り始めるという推移が10年前も今も起きている。

 人類は学習できる生き物だと言われるが、われわれはもしかすると、学習する能力はあっても、それを生かせないのかもしれない。

 日本人は歴史小説が好きだが、こんなに歴史に学ばない国は珍しいのではないか。

 さらに自粛という言葉がくせ者だ。これは政権に対する不信の一つだが、国民に対して「自粛を要請する」とはいかがなものか。

 多くのメディアが「日本語としておかしい」と指摘しなかった。自粛は本来、自ら行うもので、人に要請されるものではない。

 それでも自粛要請がメディアに踊り、行政の人たちの言葉によって社会に伝わっていく。

 「国民の自粛に頼るだけなんて、政府は無責任じゃないか」とほかの先進国なら怒りの声が上がるだろう。日本ではそうならない。

 それどころか、自粛要請は禁止令、戒厳令のように受け止められた。みんなでここは耐えようと。

 罰則規定がなく、政府が規制しなくてもなぜ、日本人は真面目に家にいるのか。世界は驚いた。見方によっては美徳でもあるので、これは日本人のいい意味の地金が現れたと言える。

 一方で自粛しない人がいる。「自粛」である以上、その選択を責めることはできないのに、悪の権化のように言われた。外食や外出を非難する人もいた。自分は家で我慢しているのに許せないと。

 似たような社会的圧力は震災後にも起きていた。コマーシャルや歌舞音曲はやめ、旅行も駄目だと。

 周りが経済を活性化しないと被災地への支援はできない。ところが日本中が自粛したことで、リーマンショックから立ち直りかけた経済がまた駄目になった。「あの時はやりすぎた。自粛を強制するのはやめよう」と言っていたのに10年で戻ってしまった。

 今回は「自粛警察」なる人も出てきた。営業中の飲食店などに電話をかけたり、張り紙をしたり。もう脅迫だ。

 自粛しないのは違法ではない。でも「日本人として」というキーワードが出てくる。戦前・戦中の「隣組」は、こうして生まれたのかと私は思った。ジャズも外国語も違法でなくても通報され、生活が息苦しくなった。

 戦後75年を経てそんな日本に二度とならないと思っていたのに、全然変わっていない。

 コロナはまだ治療薬もワクチンも確立されてなく、高齢者がかかると重篤になりうる危険な感染症ではあるけれども、明らかに過剰な部分と、逆にすごく緩い部分ができている。政治がしっかりと線を引かないからこういうことが起きる。自粛だからこうなる。

箱の中を快適にできる天才

 暮らしや働き方の変化を見ると、日本人はミッションを与えられて、小さな箱に入れられると、箱の中を快適にできる天才だと思う。ただ、箱庭は自由に出入りできるからこそ快適なのであり、今は外から自粛という名の鍵をかけられている。

 働き方改革が進んだとか、本社は東京になくてもいいと言う人がいるが、コロナという外的要因のせいで強制的に会社に行けなくなり、仕方なく家で仕事をしている。

 にもかかわらず、それが職住近接の快適さにつながり、これで働き方改革が進むという風潮をつくっていることを危惧している。

 専門家に聞くと、自宅勤務が広がったことで、家族内のストレスが高まり、家庭内DVは確実に増えているそうだ。

 夫婦でPCの奪い合いとなったり、学校がリモート授業をしようにも、その環境が整っていない家もある。家での仕事は拘束時間が長くなり、オンライン会議が増えたとこぼす人もいる。

 コロナが収束しない状況が長くなればなるほど、働き方改革と逆の方向に振れ、会社からリモート勤務を命じられるなど、社員の線引きを生む事態が生じるかもしれない。

 現在の状況はあくまでも非常事態であり、非日常だ。新しい生活様式とは言ってほしくないし、われわれが選んだわけではない。

 経営者にとっては、企業の存亡がかかっている。国の支援に限界が見え、新政権は「自助」と言い始めた。

 コロナ禍がこれまでの経済危機と異なるのは、どこか他国で稼ぐという抜け道がない点だ。インバウンドも当分ゼロで続くと考えた方がいい。

 スポーツ用品メーカーがマスクを作ったように、今の生活に必要な物に着目するのも一つだろう。人が動き始めたときにどこで勝負するのか。設備投資をしなくても自分たちが持つシステムや製品を使って、売上げを伸ばす工夫が重要だ。

 コロナ禍でも、自宅に居ながら欲しい物は取り寄せられ、誰とでもオンラインでつながる。外に出なくても快適な暮らしができる環境が整っていたのは幸運だ。

 ここに自分たちの商品をどう乗せるかを考えるといい。自分たちのビジネスならどんな付加価値を与えられるかを考えるのは、箱の中を快適にする話と同じ。それをどう発信するか。

 国はもっと丁寧に情報発信してほしい。迷走する情報を整理するだけでも違う。情報をストレートに伝え、医療的なことに政治は絡まない。この状況を未来に生かすために、記録をきちんと取ることも重要です。

過去と今と未来を見る目を

 日本の電機メーカーは株価を意識しすぎて迷走している。重要なのは株価ではなく、製品です。世界で評価され、使われている製品があれば企業はつぶれない。なぜ株価ばかり気にするのか。

 モノづくりは製品で評価されるべきで、日本の電気製品は世界の先端を走ってきた。「こんなときに設備投資すれば株価が下がる」と言われても「いい物を作るためだ」と反論する誇りは見られなくなったが、哲学があるから生き残っている。

 製造業の強みは売れば利益が出るところ。株価が下がると銀行からの資金調達に影響すると考えられがちだが、製品に力があれば銀行は融資する。

 日本への投資はほとんど外国人が牛耳っている時代なので、必ずしも株式市場に上場するのがベストではない。

 株価を気にしないことと、使う側の視点に立って良い物を売れば、まだ日本の企業、メーカーは世界で負けないと思う。

 日本の町工場には、海外企業が欲しがる特許がたくさん埋もれている。発注がないと特許は眠ったままなのでそれを狙う外資は多い。数億円で買って数百億円のビジネスにできるからだ。

 自分たちの持っている技術の洗い出しをメーカーはしなくなった。言われた物だけ作るのではなく、まだ無い新しい製品を何か作ろうと発想する中小企業は生き残る。電機業界は特に柔軟さが必要だ。

 加えて、伝えるメディアの記者はもっと専門性を磨いてほしい。電波新聞には、批判ではなく、こんな未来が見える、ここがポイントだと、専門性がないと書けない記事を期待したい。

 論文と同じで、いい記事は世界から検索され引用される。いい意味の緊張感とポジティブさを業界と共有し、過去と今と未来を見る目を持って、発信していただきたい。

 真山仁(まやま・じん)  1962年大阪府生まれ。87年、同志社大学法学部政治学科卒。同年中部読売新聞(のち読売新聞中部支社)入社、89年同社退職。フリーライターを経て、2004年『ハゲタカ』(講談社文庫)でデビュー。 著書に06年『マグマ』(角川文庫)『バイアウト』(講談社文庫 ※『ハゲタカⅡ』に改題)、09年『レッドゾーン』(講談社文庫)、11年『コラプティオ』(文春文庫)、13年『黙示』(新潮文庫)『グリード』(講談社文庫)、14年『売国』(文春文庫)、17年『標的』(文春文庫)『オペレーションZ』(新潮文庫)、18年『シンドローム』(講談社文庫)、19年『トリガー』(KADOKAWA)、20年『神域』(毎日新聞出版)など。