2020.11.02 【NHK技研90周年記念特集】NHK技研戦後の足跡

NHK技研の技術の結集「SHV」をラスベガスの「NABショー2019」でデモ(写真提供=NHK技研)

 90年にわたり日本の放送技術の研究に尽力してきたNHK放送技術研究所(技研)。日本の放送と技研の研究成果など、戦後75年の足跡をたどる。

50年 カラー放送の研究スタート

1945-70年代

 45年8月15日正午、ポツダム宣言を受諾した日本は、NHKが昭和天皇の「終戦の詔勅」を録音盤再生により放送。この時から長くラジオ放送主役の時代が続く。52年8月にNHKのラジオ受信契約は1000万件を超えた。

 中断されていた技研のテレビ研究は46年に再開し、48年にはテレビの公開実験が技研で行われた。

 技研でカラー放送の研究が始まったのは50年。53年2月1日にNHKが本放送開始、同8月28日に日本テレビ(NTV)が民放初のテレビ放送をスタート。58年5月にはNHKテレビの受信契約は100万件を突破した。

 59年4月10日、明仁皇太子殿下(現在の上皇)と美智子さま(同上皇后)ご成婚。NHKと民放は「世紀のパレード」を生中継した。視聴者は推定1500万人。

 このパレードを見るため、カラーテレビが爆発的に売れた。NHK受信契約もパレード前の4月3日には200万件へ、1年前から倍増した。

 ご成婚翌年の60年9月10日、NHK東京・大阪、KRT(現TBS)、大阪の読売テレビと朝日放送がカラー本放送開始。技研では東京五輪開催に備え、放送技術の開発のピッチを上げた。

 64年10月10日、東京五輪開幕。NHK技研が開発した多くの新技術が五輪中継で活躍した。撮像管2本を使ったカラーカメラ、接話マイク、スローモーションVTRなどが五輪放送のために登場。

 カラー放送の映像をもっと高精細にとばかりに、技研は64年高精細度テレビ(85年〝ハイビジョン〟と命名)の研究を開始。

 71年10月10日、NHKが総合テレビの全番組をカラー放送、同月にNTVも全カラー放送で続く。

 また、同年には技研がプラズマディスプレイ(PDP)の研究に着手している。

 73年7月31日、NHKが内幸町(千代田区)の放送会館から渋谷区の放送センターに移転完了。

91年 ハイビジョン試験放送が開始

80年-90年代

 NHKが71年、全番組の放送をカラー化して以来テレビの普及は増え続け、NHKの受信契約は82年9月末に3000万件を超えた。80年代は〝ニューメディア〟と騒がれた衛星放送の萌芽期。84年5月12日、NHKは衛星放送の試験放送を開始した。映像はデジタル、音声はアナログのハイブリッド方式だった。

 89年1月7日に昭和天皇崩御。以降2日間はNHKと民放が娯楽番組を自粛し、荘厳な音楽とともに昭和天皇の思い出や昭和時代の回顧といった内容の番組を放送した。

 66年に技研が始めた衛星放送の研究は約20年後に実を結んだ。

 89年6月1日にNHKの衛星第1、第2チャンネルによるアナログBSの本放送が始まった。ハイビジョンの試験放送開始もこの年の6月3日のこと。

 91年1月17日に湾岸戦争が始まり、世界のお茶の間に米CNNなどによる戦争のシーンが長時間届く。

 91年4月1日、放送衛星による初の民間有料放送WOWOWが開始した。

 91年11月25日にはハイビジョン推進協会(HPA)によるハイビジョン試験放送が始まった。郵政省(現総務省)とNHKが11月25日を「ハイビジョンの日」と制定。ハイビジョンの走査線数の1125本に由来する。

 92年4月21日、スター・チャンネルなど有料の衛星放送(CSアナログ放送)が開始。

 90年代に入って衛星放送が一段と注目されるようになり、93年3月末でNHKの衛星放送受信契約は500万件を突破した。

 94年2月22日、郵政省(現総務省)江川晃正放送行政局長が「世界の流れはデジタル」との発言があった。MUSE(アナログ方式)によるハイビジョンを推進してきたNHKは反論する。

 しかし江川発言によりデジタル化が一気に進み、衛星放送の方式転換をもたらしたエポックメーキングな発言でもあった。

 94年11月25日にはハイビジョンの実用化試験放送が始まり、この試験放送はBSデジタル放送が始まる2000年11月30日まで6年間続いた。

 95年1月17日の阪神・淡路大震災で、NHK、民放のテレビ、ラジオ局が総力を挙げて報道態勢を取った。

 95年は技研でハイビジョンを超える超高精細映像(04年に〝スーパーハイビジョン〟と命名)の研究開始の年となる。

 98年には技研が42型のPDPテレビの開発に着手、時代は大型画面化に向かった。

18年 12月1日に4K8K本放送

2000年代

 20年までの20年間は58年の長きにわたるアナログテレビ放送が終了してデジタルへ移行し、また高精細映像から超高精細映像へと、大きく変わった時代でもあった。

 2000年は技研でこれまでのハイビジョンを超える超高精細映像の研究をさらに発展させ、走査線数4千本級の超高精細映像、つまりこれぞスーパーハイビジョン(SHV)ともいえるシステムの研究がスタートした年でもあった。

 00年2月末、NHKの衛星放送(アナログ)受信契約が1千万件を超えた。500万件を超えたのは1993年3月末、約7年間で500万件の増加。

 デジタル放送の開始時期では、衛星放送が地上デジタル方式より先行した。

 CSデジタルは96年に放送開始しているが、BSデジタルは2000年12月1日スタート。NHK、民放キー局系、WOWOWなどが一斉にBSデジタルテレビ放送を開始、同時にBSの普及促進を図るBSデジタル放送推進協会(BPA)が発足している。

 衛星デジタル放送の開発と並んで地上デジタル放送、いわゆる地デジの研究も技研で進めてきた。

 技研の努力の結集でもある日本の地デジ方式「ISDB-T」は、今では中南米を中心に採用されている。

 03年2月、国内では地上最大の引っ越しと言われたアナログ周波数変更対策(アナアナ変換)の作業が開始。UHF帯の低い周波数をデジタル放送用に空ける作業をNHK、民放が一体となって進めた。総務省によると、アナアナ変換作業は07年3月末まで続いた。

 こうした努力の結果、03年12月1日、東京・名古屋・大阪で地デジ放送が開始。以降全国の県庁所在地へと拡大し、衛星に続いて地上波でもデジタル放送が国内で視聴可能になった。

 総務省や放送業界として地デジ放送の次の課題はアナログ停波、デジタルへの移行となった。

 07年、放送のさらなるデジタル化に向け、BSデジタル放送を推進するBPAと地上デジタル放送推進協会(D-PA)が統合してデジタル放送推進協会(Dpa)が4月1日に発足した。

 同年12月1日に「デジタル放送の日」が制定。09年4月には地デジ化をサポートする組織として愛称「デジサポ」の「テレビ受信支援センター」が設立された。

 デジサポは全国に設立され、民放連は地デジのPRキャラクター「地デジカ」を発表し、NHKはお笑いコンビ「テツandトモ」を起用して地デジキャンペーンを展開。

 11年3月11日、東日本大震災が発生。このため総務省は地上アナログ放送を12年3月31日まで延長することを決定したが、11年7月24日に東北3県を除く44都道府県でアナログ放送が終了した。

 12年5月22日に東京スカイツリーが営業開始。東京タワーに代わりデジタル放送時代の電波塔の役割を果たしている。

 デジタル時代の到来を見据え、着々とSHVの研究を進めてきた技研は05年に75周年を迎え、同年3月25日から半年間愛知県で開催された「愛・地球博」(愛知博)でSHVを展示した。

 06年4月に技研は米ラスベガスのNABとアムステルダムのIBCという米欧2大放送機器展で展示するなど、海外でもSHV研究の成果を披露した。

 16年8月1日に始まったNHKによるSHV(4K8K)の試験放送は18年7月23日まで続き、同年12月1日には4K8Kの本放送が始まった。技研が95年から始めた超高精細映像の放送実用化への取り組みは25年足らずの歳月で花を開いた。

 2000年代に入って放送と通信の連携が進み、13年9月2日から映像に関する情報をインターネットで画面表示する「ハイブリッドキャスト」サービスがスタート。

 技研の研究成果を紹介する19年5月の技研公開では、今後10年から30年後のメディア技術や高精細VR映像、将来の3次元映像デバイス、フルスペックの8Kライブ制作伝送の実験などが行われた。

 海外でも同年4月のNABで88インチの8Kシート型有機ELディスプレイを含めた8Kリビングシアターを展示、米国の放送関係者の関心を集めた。

 今後もAIや5Gを活用した新しい放送技術が、技研から出てくることは確実だ。