2020.09.30 【電波新聞70周年特集】作家・歌手歌手 五木ひろし 歌に向き合って50年 道しるべとなって

 70周年おめでとうございます。電波新聞には、五木ひろしデビュー20周年当時の1990年から、これまで144回掲載していただき、今年で50周年を迎えることができました。

 電波新聞は東京だけでなく、仙台、名古屋、大阪、広島、福岡に支局があり、各地でも取材をしていただきました。

 新譜のプロモーションで訪れる場所に電波新聞の支局があることに縁を感じ、うれしく思います。

 長く業界の先頭を走り続けることはとても大変です。50周年の私も若手の頃は、たくさんの先輩にかわいがられ、教わりながら、背中を追いかけていました。

 追い付け追い越せで走り続け、ある時、先頭で皆をけん引する立場になりました。

 自分で道を切り開くということを知り、ある種の孤独を感じながら、たくさんの後輩たちの道しるべとなり、方向を示す日々を送っています。

 1人になってから、よりスピードを上げて突っ走っています。トップスピードを保ち続けることは簡単ではありませんが、先頭を譲る気はありません。

 長く信念を貫き続けるにあたって、大切にしている二つのことがあります。「母の存在」と「童謡」です。

 今と違いラジオしかなかった幼少期、歌を聴いて育った私は、歌手を夢見てデビューしたものの、うまくいかない時代もありました。

 その後、五木ひろしとして改めてデビューした1970年代はとても華やかでした。

 各テレビ局が歌番組を持っていたため、1曲出せばテレビを通して全国に曲が届き、すぐにヒット曲が誕生しました。

 1年で3枚のレコードを発売することも珍しくなく、需要と供給が高い位置で合う良き時代だったと思います。

 歌手としての成功を一番喜んでくれたのは、苦労をかけた母でした。福井の田舎から母を呼び東京で一緒に暮らすことと、母のために家を建てることを親孝行として実現できたのは良い思い出です。

 ヒット曲にも恵まれ、五木として華やかな世界に足を踏み入れましたが、帰宅すると母が昔と変わらず厳しくぶれない姿で接してくれたため、家では(本名の)松山数夫に戻ることができました。

 てんぐになることなく、歌が好きだという気持ちで活動が続けられたのは母の存在が大きく、家庭とのつながりを持ち続けられたからだと思います。

童謡こそ日本の歌の原点

 五木ひろしを演歌歌手と表現する方もいますが、私は演歌歌手だとは思っていません。歌手 五木ひろしです。

 「良い曲」はジャンルを問わずあり、作詞や作曲の先生方との出会いを大切に、良い曲を届ける活動を続ける五木にジャンルはありません。

 幅広い歌を歌うため、童謡を大切にしています。童謡こそ日本の歌の原点だからです。

 現在、五木ひろしの自己プロデュースに全てを懸けるため、あえて弟子はとっていませんが、後輩たちを「五木学校の生徒」という感覚で、できる範囲で手助けしています。

 その生徒たちにも、「童謡をうまく歌えなくして歌手と名乗るな」と、童謡を歌うことを勧めています。

 「夕焼け小焼け」「赤とんぼ」などたくさんの童謡がありますが、メロディー通りしっかり素直に歌うことが大切で、一番大変です。

 そこに、こぶしはいりません。歌手としてうまく歌えるようになるとクセも出てしまう。

 原点を忘れそうなときには童謡を譜面通りに歌うことでリセットさせる。私自身も取り入れ、今でも童謡は歌います。

 歌が好きであることと、素直に歌に向き合うことを芯に、ひとつひとつを積み重ね、あっという間の50周年です。

 歌手活動では、生のステージでお客さまに直接声を届けることを一番大切にしてきました。

 今年は、50周年のアニバーサリーということもあり、ワンマンライブのほか、ゲストとともにステージを作る「ITSUKIフェス」など、様々な企画を立てていましたが、新型コロナウイルスの影響で中止や延期になりました。

 これまで当たり前にできていたことができなくなり、戸惑いや不安はありましたが、今こそ原点に帰るべきだと考えました。

 そうして生まれたのが「ITSUKIモデル」の弾き語りライブです。多くのバンドメンバーを携えることなく、客席も5割に制限し、ソーシャルディスタンスを重視したステージになりました。

1日に、東京・浅草公会堂で開催した「ITSUKIモデル」での弾き語り

 今までのステージで、皆さまに華やかさはたくさん見せてきました。

 今は「お客さまの前で歌う」という一番やりたいことをしようと、生身の五木ひろしでストレートに心を伝えることを考えました。

 緊急事態宣言中も、ギターや歌の練習をしたり、曲作りをしたりと、ステージのために準備を続けていました。

 実は、五木ひろしとしての最後のステージもギター1本で行い、歌が好きな松山少年に戻って歌手人生を終えたいと思っています。

 それほどギターでの弾き語りには思い入れがあるのです。だからこそ、ギター1本でも歌える自信があり、「ITSUKIモデル」を成立させることができました。

 このライブでは、初めてオンライン配信を行いました。私のファンには昔から応援してくださっている方も多く、一緒に年齢を重ねてきました。

 私を含め高齢の世代が大半で、若い方のように流行を敏感にキャッチできない世代だと思っています。

 なので、ファンの皆さまを育てる、と前々から公言しており、「先走るけどついてきて」とお伝えしています。

 レコードからCDへ変わるときにも「これからはコンパクトディスクの時代ですよ」と直接お伝えしてきましたが、私の曲はカセットテープの売上げの方が高かったことが印象的です。しかし、3-5年かけて、ゆっくりとCDが浸透しました。

 今回のオンライン配信も同じです。若い方には当たり前の文化でも、高齢世代にすぐに浸透させるのは難しい。

 それでも、時代に合わせて勇気をもって第一歩を踏み出す。そのタイミングが今なのでしょう。

演歌を真ん中に戻したい

演歌の幅広さを伝えるカバーアルバム「演歌っていいね!」

 カバーアルバム「演歌っていいね!」(8月26日発売)でも新しい取り組みをしました。

 自粛期間中、できることをやろうと企画を考え、若手も頑張っているし、皆育ってきている。

 先輩として拍手を送りたいと、後輩へのリスペクトを込めてカバーアルバムの制作を決めました。

 72歳の私が30代の後輩の曲を歌うことは、はるかに大きなチャレンジでした。どこまでできるのか不安もありましたが、1、2曲歌ってみたら「イケる」と感じ、楽しくレコーディングができました。

 選曲についても悩みましたが、例えば純烈は、「演歌は幅広い」と伝えるためにも外せないと考えました。彼らのファンに限らず、多少でも演歌に興味がある人、若い人にも演歌を聞くチャンスをつくりたいのです。

 五木ひろしが、どのように後輩の曲を歌い上げるのかにも、興味を持ってもらいたい。

 実際、選曲させていただいた後輩歌手だけでなく、そのファンの皆さまにも喜んでいただけると思います。

こうした活動を続けることで、昔は流行のど真ん中だったのに、今は中心からずれてしまった演歌を、少しでも真ん中に戻したいという思い、夢があります。

シングル「遠き昭和の…」。10月21日には追撃盤をリリース

 誰もが経験したことのないコロナ禍で改めて「日本人魂」を感じる中、7月にはシングル「遠き昭和の…」を発売しました。

 これは、10年前の曲ですが、令和の今だからこそ〝遠き昭和〟が実感できる歌だと思い、歌わせていただきました。

 カップリング曲を変えた「遠き昭和の…」の追撃盤も10月21日にリリースする予定です。

 新たに収録する「おまえの港」は昭和の終わりにできた曲で、今回初めてシングルカットしました。久々に聴いて改めて良い曲だと感じ、セルフカバーしました。

とにかく歌が好き 好きなことやれる最高の人生

 とにかく歌が好きで、歌っていない人生はないと思っています。好きなことをやれる幸せを感じ、最高の人生です。

 休むことが嫌いで、性格としても常に何かをやる方が合っているので、今後もビッチリと動いていきたいです。

 来年には、東京・明治座での劇場公演や延期になっていた「ITSUKIフェス」を開催する予定です。その様子もぜひ電波新聞でお伝えしたいですね。

 何かとオンライン化が進んでいますが、紙の新聞にはオンラインにはない良さがあります。私も新聞を読むことが毎朝の日課になっています。これからもよろしくお願いいたします。

 五木ひろし(いつき・ひろし) 1948年生まれ。65年に松山まさるとしてデビュー。その後、五木ひろしに改名し、71年に「よこはま・たそがれ」を発表。NHK紅白歌合戦の連続出場回数49回で歴代1位など大記録を樹立している。07年に紫綬褒章、18年に旭日小綬章を受章。