2020.12.22 【メーカーズ ヒストリー】アキュフェーズ物語〈2〉マスセールスとの決別から創業へ

オーディオブーム時期オーディオ御三家の雑誌広告。少年向け〝月刊ラジオの製作〟に掲載

■マスプロ、マスセールの時代

 進入学需要が1年のうち最大のピークを迎えるこのトレンドは、バブルが崩壊する1990年代まで続く。CDが登場した1982年から5、6年はレコードやカセットテープとの併存時代であったが、既にCD主役時代を迎えていた。オーディオ御三家といわれた3社は、この最盛期には在庫が払底することが珍しくなかった。

 当時、「余るのではないかと思うほど生産したけれど、それでも足りなかった」(パイオニアなど)という、うれしい悲鳴が聞かれるほど需要は活発だった。このトレンドに「後れを取るな」とばかりに各社ともマスプロ、マスセールスに走り出したのは無理もなかった。

 トリオもその例外ではなかった。とりわけ中野社長は「この好機を逃すな」とばかりに普及価格帯の品ぞろえ強化を打ち出す。これに「待った」をかけたのが技術担当副社長の春日二郎氏である。せっかくマニア層からも高く評価されているFMチューナなどHi-Fiコンポの技術開発に支障を来すことを危惧したからで、兄の春日仲一副社長を加えたトップ3人による、この商品戦略をめぐっての衝突に端を発する対立は徐々に抜き差しならぬ様相を深めていく。

 役員を含めて社内が中野派と春日派に割れての内紛は、すぐに業績悪化となって表面化する。上場企業として株主(株価)の期待に応えるどころか、もはや業績向上を望めなくなることは火を見るより明らか。結果、ライバル企業が好業績を上げていただけに経営責任を問われるようになっていく。

■マスセールスとの決別から創業へ

 春日二郎氏が義兄である中野社長に遠慮なくものが言えるのは「自分は創業者であり、またトリオの音響技術を支えている」という自負があったからで、他意はない。確かに「この製品の素晴らしさを認めてくれる、そういう人たちが買ってくれればいい」という高級路線(趣味の世界)と、マスセールスを目指す拡大路線とは両立しない。中野社長の趣味はクラシック音楽を聴くことで、独自のモーツァルト論などその造詣の深さは音楽愛好家から一目も二目も置かれていた。

 購入しやすい価格帯で再生装置を提案し、普及させることは同氏の念願でもあった。それだけに何かと「技術優先」を主張する二郎副社長とはしばしば意見が一致せず、互いに煙たい存在になっていく。

 ただ、社内外への根回しとなると、二郎氏は無防備というか無頓着というか、全く関心がない。結局、業績悪化の責任を取らされる形で退任(71年11月)するが、兄の春日仲一氏も同時に退任する。

 両氏とも相談役として残るのを断り、翌年(72年6月)にはケンソニック(現アキュフェーズ)を創業し、いよいよ本来の「究極の音創り」という理想を追求する第一歩を踏みだすことになる。(つづく)

評価が高かった初期の製品