2020.12.25 【音に魅せられて】Technics(パナソニック)〈2〉幸運 テクニクス配属

 パナソニックの高級オーディオブランド「Tecnics(テクニクス)」は2014年にブランドを復活して以降、数々の新製品を投入し話題を呼んでいる。2020年はブランド誕生55周年を迎えた。前回はアプライアンス社テクニクス事業推進室の井谷哲也CTO(最高技術責任者)/チーフエンジニアとともに歴史を振り返ってきたが、今回は井谷氏自身のテクニクスとの関わりを聞いた。
(聞き手は電波新聞社メディア事業本部水品唯)

■テクニクスからスタート

 ―井谷CTOは入社時からテクニクスだったのですか。

 井谷 私は1980年(昭和55年)に入社し、配属はテクニクスの技術部門でした。もともとオーディオが好きで電気系の大学に入り趣味でアンプを組んだりもしていましたので、松下電器産業へ入社した際にテクニクスをやらせてほしいと言ったら運良く配属してもらえたのです。当時、オーディオは最先端でしたから、人気も高く、配属してもらえたことは幸運でしたね。

 ただ仕事も分からない上に、最初の仕事がそれまで誰もやったことのないCDプレヤーの開発だったので、相談できる先輩もいない状況で、例えて言うと、泳げないのに海に投げ出された感じでした。その分とても鍛えられました(笑)。

■CDの開発

 ―オーディオ業界が伸びていた時代ですよね。

 井谷 そうですね。オーディオ全盛期で、当時はステレオ事業部、ラジオ事業部、録音機事業部、東京ステレオ事業部があり、松下全体でも音響部門の売上げ構成比が高かった時代でした。ちょうどカラーテレビが一巡してVTRが台頭する前で、音響部門は大きく盛り上がっていました。1979年(昭和54年)に「SL-1200MKⅡ」をヒットさせていたレコードプレヤーに勢いがありました。そのレコードプレヤーの開発部隊の中で先行的にCDを開発する部署ができ、私はそこへ配属になりました。当時の技術部長はテクニクスブランドの立役者の一人で「ダイレクトドライブターンテーブル」の生みの親でもある小幡修一でした。

―CDプレヤーの開発が最初だったということですね。

 井谷 そうですね。1982年(昭和57年)に発売したCDプレヤーの1号機「SL-P10」の開発を担当しました。その後はポータブルCDプレヤーの開発も手がけました。1号機では半導体だけで13チップもあり、ピックアップも大きかったのですが、これをCMOSワンチップ化するなど、小型化に取り組みました。1985年(昭和60年)に発売した業界初のポータブルCDプレヤー「SL-XP7」は、様々なカテゴリにCDを展開していくきっかけになりました。

SL-P10
SL-XP7

 小型化すればそれだけ搭載できる機器が増えるからです。当時、先輩が「CDは10年もすれば一家に5-10台入るようになる」と言っていました。私は「本当かな?」と思っていましたが、実際にカーオーディオにもラジカセにもPCにも、あらゆるものにCDが入りましたよね。その意味では新人のころから最先端の開発に携わってこられたことも幸運だったと思っています。

■CD→LD→DVD→BDへ

 ―井谷さんは入社後テクニクス一筋だったのですか?

 井谷 実はそうではないのです。テクニクスでポータブルCDを開発し発売した後には、レーザーディスク(LD)のプロジェクトに異動しました。テクニクスとの関わりはここでいったん終わります。当時はビデオディスクが大きな市場になりつつあり、LDもCDと同じ光ディスクが基本技術ですから、次世代メディアとして期待されていました。「これからはオーディオビジュアルだ」と息巻いて取り組んでいましたが、結果はカラオケが中心になり、東南アジア市場への展開なども進めていましたね。

 LD関連は約10年やりまして、1995年(平成7年)にDVDのプロジェクトに参画することになりました。私自身はDVDの開発に携わり、初めて自分がやりたかったオーディオビジュアルの世界を感じることができました。ハリウッドの映画を家庭で見るというコンセプトでしたから、画質と音質の両面にこだわっていくことになりました。当時はプログレッシブ変換などにも取り組み、この技術が後の「DIGA(ディーガ)」の映像技術につながっていったと思っています。実際にテクニクスブランドでDVDオーディオ/ビデオプレヤーも発売しました。

◇DIGAへ

 続いて私は2005年(平成17年)にブルーレイディスク(BD)のプロジェクトに異動し、現在のBDレコーダDIGAの開発に取り組んできました。最終的には3Dまで関わりましたね。BDの開発に取り組んでいた当時の技術部長が次期社長の楠見雄規でした。楠見の下でハリウッドの研究所や映画会社とともに、高画質化の開発に取り組みました。

■テクニクスブランド終息へ

 ―2010年にいったんテクニクスブランドが終息することになりましたが、その時点ではテクニクスブランドには関わっていなかったということでしょうか?

 井谷 実際にテクニクスのHi-Fiコンポーネントは2000年(平成12年)ごろから新製品は発売されなくなりました。もともとHi-Fiオーディオは製品サイクルが長いのですから、徐々にフェードアウトするといった感じです。唯一、ターンテーブルの「SL-1200MK6」とDJ関連製品が出ていましたが、実質は製品展開自体も終焉(しゅうえん)を迎えていたと思います。

 2008年(平成20年)に、松下電器産業からパナソニックに社名変更する際にブランド戦略が見直され、パナソニックブランドへの統一化が図られました。私自身はこの時点ではBD関連の開発に携わっていましたから直接テクニクスには関わっていませんが、同じ敷地でオーディオの部隊と同居をしていましたし、皆顔見知りですから心情は理解していたつもりです。

 ―テクニクス終息時点で技術者の方はどうなったのでしょうか。

 井谷 定年などで去られた方もおられますし、多くはパナソニックのオーディオ部門での開発に携わっていました。また技術者は他部門でも応用が利くため、ほかの事業場へ異動した人もいました。この時期はAVレシーバやホームシアターシステムなどの市場も拡大していましたから、そちらの領域に力が入っていきましたね。

 ただ、元テクニクスの技術者たちはストレスがたまっていたと思います。テクニクス時代の開発とは違い、一般消費者向けのあまり音質にこだわれない開発になるわけですから。
(つづく)

次回はテクニクスブランド終息と復活劇の裏側について聞きます。

【井谷哲也氏プロフィル】パナソニック アプライアンス社テクニクス事業推進室CTO(最高技術責任者)/チーフエンジニア

 いたに・てつや 1958年1月20日生まれ。京都市出身。岡山大学工学部電気工学科卒。1980年、松下電器産業(現パナソニック)入社。81年、ステレオ事業部CDプレーヤ開発プロジェクト配属マイコン担当。82年、CDプレヤー1号機「SL-P10」発売。85年、ポータブルCDプレヤー1号機「SL-XP7」発売。86年、MLP(レーザーディスク)プロジェクト異動 映像信号処理担当。90年、世界初のデジタルTBC搭載「LX-1000」発売。95年、光ディスク事業部DVDプレーヤプロジェクト異動 映像信号処理担当。98年、世界初のプログレッシブDVDプレヤー「DVD-H1000」発売。2004年、HDMI搭載DVDプレヤー「DVD-S97」。05年、BDプレーヤプロジェクト異動 再生系映像信号処理担当/PHL Reference Chroma Processor/3Dプロジェクト。10年、ホームAVBU(NWBG)発足 オーディオ・ビデオ先行開発担当。13年、高級オーディオプロジェクト発足プロジェクトリーダー。14年、Technics復活。15年から現職。